平安京時代初期、日本仏教の最大の功労者最澄(諡号 伝教大師)が登場します。
最澄は若くして東大寺で受戒しますが、その頃の学問仏教・鎮魂仏教であった日本仏教に対し疑問を持ち、「四弘誓願」と称し比叡山で隠遁生活を送るようになります。そして高雄山寺で催された法華会(学会)講師に迎えられ、留学僧として遣唐に同行することになるわけです。
最澄は天台宗の開祖と呼ばれますが、天台宗はもともと中国隋の時代に智邈が創めた大乗仏教のひとつで、最澄が遣唐した頃には時代遅れの宗派(南都六宗の法相・華厳・律宗よりも先の成立)でした。そして最澄が唐からもたらしたのは天台法華経だけでなく、禅・大乗戒の内(大乗菩薩戒)・密教など当時の学問仏教を一通り持ち帰りました。これを、最澄は法華経の「円」 *1に加え、「戒」・「禅」・「密」とあわせて四宗相承して帰国したといいます。
では最澄が広めた法華経について。
法華経に「三権一実」というのがある。簡単に言えば"誰でも仏になれる"ということ。これは南都六宗の法相宗と対立する。法相宗は"悟りに達するのは人により限界がある"としているから。これにより最澄は法相宗高僧の徳一と生涯論争を繰り広げることとなる。
「三権一実」は三権、三乗(声門乗・縁覚乗・菩薩乗)*2は権つまり方便であって、一乗こそ実(真理はひとつ)であるとする。これに対して徳一の主張は、声門・縁覚・菩薩が悟りを開いたのであって、三乗として区別すべきであり、誰でも仏になれるというのは方便ではないのか。という三乗真実・一乗方便の考え。
結局この論争には決着はつかなかった。
次に大乗戒について。
当時仏僧になるには、厳しい戒律を修めなければならなかった。最澄も東大寺で鑑真の律に従った具足戒を修めています。しかし最澄はこれを放棄して、新たにもっと緩やかな大乗戒を提案し比叡山に戒壇 *3を申請しています。この提案書を「山家学生式」と言います。
最澄は国家統制仏教を民間の間に普及させた功績において評価されます。比叡山で学んだ弟子達からは、その後鎌倉新仏教の担い手となる仏僧が数多く輩出されました。また最澄自身も地方各所に出向き普及に努めたようです。
しかし、学問仏教としての色合いが強く、大乗仏教の本来の目的である人々の救済(布教)には至りませんでした。
■ 関連図書
- 作者: 梅原猛
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2005/05/01
- メディア: 文庫
- 購入: 2人 クリック: 17回
- この商品を含むブログ (18件) を見る