日本仏教と釈迦が説いた仏教(原始仏教)とは明らかに違う。
釈迦が悟りによって追求したものは、「仏教」というより哲学でした。ここに、宗教とは哲学とは何ぞやとい問いかけになりますが、それはここでは触れません。
釈迦は悟りをひらいて「仏陀(ブッダ)」と呼ばれるようになります。
仏陀とは"覚りを開いた者"という意味の言葉で、もちろん仏陀と呼ばれるのは釈迦だけではありません。釈迦というのも、日本人はまず仏像を思い浮かべますが、それはそれとして仏像定義があって別ものです。そして仏教開祖としてゴータマ・シッダッタ(日本俗称:ゴータマ・シッダールタ)という名前があります。
では、何がどれが仏教を説いた人の名前なのか。
ここで注意しなきゃならないのは、名前というのは現在こそ各人が持っていますが、古代中世からして名前は呼び名だということです。後世の人が偉大な人に付けるのが流儀でした。だから深くは触れずここではこの人物を「釈迦」ということにします。
では、釈迦の教え「仏教(原始仏教)」とは。
要約すると輪廻から解脱すること。輪廻とは永遠の生である六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)を巡り人は死なないとすることで、その苦しみから抜けるにはどうすべきか。これを菩提樹の下で閃いた。というのが釈迦の説いたことなのです。
永遠の生が苦しみ? というのもピンとこないとこですが、古代インドの人達は何も同じ姿のままで生きながらえると考えていたわけではありません。地獄で生きることや、生まれ変わって餓鬼・畜生になることの苦しみです。現在では死(消滅すること)が当たり前のことであって、死=苦痛と思いがちなので、反対に想像し難いかもしれません。
釈迦は、その苦しみ(四苦八苦)*1 を永遠のものと錯覚しているに過ぎないと。この世の万物は無(諸行無常)であると。つまり、すべてのものには終わりがあり永遠不滅のものなどない。人も国も、あるものすべて必ず消滅する、永遠に存在するものなど無い。と。
そして釈迦は当然自分自身さえ消滅するべきものであり、解脱した今にあっては無であり、自分自身を否定するに至った。
後年西洋で、デカルトでさえ最終的には自分自身を否定出来なかったが、釈迦はこの時代に既に無という概念を確立していることになる。ちなみにゼロの発明は古代インド人と言われる。
釈迦は、いわゆる哲学者であって、出家し解脱の域に降り立っただけなのです。
宗教のひとつの意義に救済ということがあります。釈迦は実は誰も救済しようとしていないし、その解脱の方法を教え広めたわけでもありません。ただ「八正道」というものが残っています。
釈迦は「八正道」正しい八つの道、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定を行えと説いているだけに過ぎません。その詳しい行い方や解釈は、後のいわゆる仏教(大乗仏教)によることとなります。
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