入宋し臨済宗を学んだ栄西は天台宗延暦寺の僧です。そのため、確かに臨済宗を持ち帰り広めたのは栄西ですが、日本臨済宗開祖というより、天台宗禅派の禅宗僧というほうがぴったりかも知れません。
当時は末法思想が流行し法然が浄土教を確立した頃です。法然が旧仏教派から弾圧されたように、栄西も弾圧を受けました。しかし栄西は政治的手腕を持ち合わせていました。朝廷貴族が旧仏教(南都系・天台系)を支持しているために、新興の鎌倉幕府に接近しました。
「興禅護国論」*1には、その題名の意味では"禅によって国は護られる"となるが、仏教他宗派を否定しているわけではなく、仏教によって国を統治すべきであって、その中でも禅の教えが重要だとするにとどめています。
そんなわけで、栄西は鎌倉幕府の支持を得て、京に建仁寺を建て臨済宗発展の基礎とします。その建仁寺は臨済宗の寺というだけでなく、天台・真言の三宗兼学の寺院として建立。後に建仁寺は京五山に指定されます。
同時期の法然ー親鸞に繋がる浄土宗が個人の救済を説いたのとは異なり、栄西の臨済宗は国教を目指しました。という意味で栄西は宗教家・布教家ではなく、政治家色が濃い僧侶と言えます。事実、武家社会の政治顧問は臨済宗の僧が掌握していきます。
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